2014年日語能力考N1讀解部分真題

 問題8 次の(1)から(4)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

2014年日語能力考N1讀解部分真題

(1)失敗はすべて、子どもがその後の人生を大過(注)なく生きるための血となり、肉となる。そう思えば、失敗する前に手を出すことがいかに愚かな教育か、わかろうというものです。ただし、親は常に子どもをそばでしっかり見守っていなければなりません。手は出さないけれど、いつでも危険から救ってやれるよう、待機するのです。そうして、もし子どもが転んでケガをしたら、「ほら、痛いでしょう。ぶつからないように注意するのよ」と教えてやる。そういう姿勢が親に求められるのです。

(大宅映子『親の常識』による)

(注)大過:大きな過ち

46、筆者が親に対して言いたいことは何か。

1子どもが失敗しなくなるまであきらめずに教えることが大切だ。

2子どもが失敗しないようあらかじめ教えることが大切だ。

3子どもが失敗するまでは何も言わずに見守ることが大切だ。

4子どもが失敗したとしてもそのまま見守ることが大切だ。

(2) 以下は、ある會社がホームページに掲載したお知らせである。

47、「ビタミン生活V」について、この文書は何を知らせているか。

1通販を一時中止して、しばらくの間店舗販売のみ行う。

2生産體制が整い次第、通販に加え店舗販売も再開する。

3在庫不足のため、現在は通販および店舗販売を中止している。

4 販売は一時すべて中止になるが、後日店舗販売のみ再開する。

(3)以下は、諦めについて書かれた文章である。人が自分の能力以上のことに憧れ、それがどうしても出來ないというのに、なお執着を持っているとしたら、登れない壁の下で、徒らにじたばたしているようなもので、気の毒でもありますが、滑稽でもあります。この場合は諦めが必要です。ただそれは、その次の、自分の能力に合った憧れなり、道なりを求めるためにのみ必要であって、諦めの中に憩ってしまうことは少し見當が外れていることになるかもしれません。

(串田孫一『考える葦』による)

48、筆者の考えに合うのはどれか。

1前へ進みたいなら、無理なことに執着せずに諦めることも必要だ。

2前へ進めない理由がわからないなら、諦めることが必要だ。

3能力を超えていると思っても、すぐに諦めてしまっては前へ進めない。

4能力に合った憧れや道を求めるなら、何事も諦めてはいけない。

(4)私が35歳になったころ、「このごろは、少年時代に経験したような、ものすごい雷雨が無くなった」と口にしたことがあります。ところが、60歳ぐらいになったとき、35歳ぐらいの人から同じ言葉を聞いたのです。つまり、私が強い雷雨は無くなったと感じたとき、その人はまだ少年時代で、強い雷雨を経験していたことになります。この場合は、無くなったのは、少年時代特有の自然から受ける鮮烈な印象、驚き、恐れでしょう。

(倉嶋厚『日和見の事典――倉嶋 厚の人文気象學ノート』による)

49、筆者の考えに合うのはどれか。

1少年時代に経験した雷雨の記憶は、人によって異なる。

2同じ雷雨でも、今の人は昔の人と同じような印象は受けない。

3大人になると、子供時代に経験した雷雨の記憶は薄れてしまう。

4昔も今も雷雨はあるが、大人になると子供のときほど強い印象は受けない。

問題9 次の(1)から(3)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。

(1)不安は、正體がつかみきれないときほど膨らんでいく。長く引きずる。

人間だれでも、自分に都合の悪いこと、恐ろしいことは考えたくない。そういう心理が働くから、無意識のうちに問題をあいまいにして解決を保留にする。そうして結局、いつまでも不安をダラダラと抱え続けてしまう。逆に自分の何がどのように不安なのか、不安に思う必要があるのかどうかを把握すれば、それだけで不安は減る。不安の正體が明確になって、これは何かしなくてはまずいと認識されれば、それは「危機感」になる。

危機感は不安と違う。危機感をもてば、行動を起こそうという意欲が湧く。さらに情報を集めて、行動計畫をたてようとする。やるべきことが明確になる。だからスタートが切れるのだ。

問題は鍵となる不安は何なのかということだ。様々な不安の中から、それを特定して意識する。その不安に、思いきり光を當てて自分で正體を見極められれば、次にどうすればいいかの対策も講じられる。(中略) 不安には、しばらく保留にしておいても大丈夫な不安もある。それがわかった瞬間、不安は、また少し減る。

こうして、自分が何をやらなければいけないかが見えてくる。やる気が出てくる。動く気になる。不安の解決策を考えながら、夢が膨らんでくることもある。

(佐々木直彥『「仕事も人生もうまくいく人」の考え方』による)

50、いつまでも不安をダラダラと抱え続けてしまうとあるが、なぜか。

1不安の原因がいくつもあって対処できないから。

2不安について考えることを避けてしまうから。

3不安が一人では解決できないほど大きいから。

4不安に向き合うと不安はさらに膨らんでいくから。

51、筆者によると、危機感をもつとどうなるか。

1次の行動に移れる。

2行動に自信がもてる。

3不安の原因が把握できる。

4不安の正體を突き止めたくなる。

52、不安について、筆者はどのように考えているか。

1解決しやすい不安から順々に対応するといい。

2保留にするべきではない不安をまず特定するといい。

3不安を感じたときはすぐに解決策を考えて実行するといい。

4不安の原因が何かわかるまでしばらく保留にしておくといい。

(2)自分の泣いているときの表情や、笑ったときの表情をまともに見たことのある人は、まずない。

寫真やビデオになれば、自然な笑いがおさめられることもあるかもしれないが、そこに映っているのは過去のそれであって、いま內側から生きている感情と重なり合うものではない。その點、鏡ならばそれを同時的に捉えられそうにもみえる。しかし、じっさいには自分が笑っているとき、その笑っている自分の顔を見たとたん、もはや笑いつづけられなくて、さっと笑いがさめてしまうものである。泣いているときも同じである。(中略)

自分の表情を視覚的に捉えることには、そもそも無理がある。他方、他者の表情を內的.に捉えることも、私たちが他者の身體を內側から生きることができない以上、不可能である。ならば他者の表情の理解はほんらい不可能なことだということになるはずだが、私たちは日頃から、表情の理解が不可能だとか、困難だとか、ほとんど思いもしない。現に私たちは他者のわずかな表情の変化にも敏感であるし、その表情の理解を土臺にすることで人間関係の基本部分を成り立たせている。

表情は、ほぼ人類に共通であって、微妙な表情は別として、人種がちがっても、それを読み間違うことはまずない。含み笑いとか、苦笑い、あるいは愛想笑いとかいったものだと、同じく笑いでも文化差があって、読み間違うことがあるかもしれないが、典型的な表情に関してはまず間違わない。そうだとすれば類としての人間のなかに、表情を通して人どうしわかり合うメカニズムが、個の単位を越えて存在するものと考えねばならない。

(浜田壽美男『「私」とは何か』による)

53、いま內側から生きている感情と重なり合う表情について、筆者はどのように考えているか。

1寫真やビデオだけでなく、鏡でも見ることができる。

2寫真やビデオはもちろん、鏡ですら見ることはできない。

3寫真やビデオでは見られるが、鏡では見ることができない。

4寫真やビデオでは見られないが、鏡では見ることができる。

54、他者の表情を理解することについて、筆者はどのように考えているか。

1人間関係が成立すれば容易に理解できるが、それ以前には困難である。

2人間関係を成立させる上で理解が欠かせないが、現実には容易ではない。

3理解できないはずだが、現実には人間関係を構築する基盤になっている。

4理解しようと努力することが、人間関係を構築する上で役立っている。

55、筆者の考えに合うものはどれか。

1表情から理解し合うことは、人間に備わったメカニズムだと考えられる。

2感情を表情で表現することは、人間に共通するメカニズムだと考えられる。

3他者の表情を理解するメカニズムは、経験を通して精巧になると考えられる。

4典型的な表情の違いを理解するメカニズムには、文化差があると考えられる。

(3)多くの大人は、子供よりも先に生きているから、自分の方が人生を知っていると思っている。しかしこれはウソである。彼らが知っているのは「生活」であって、決して「人生」ではない。生活の仕方、いかに生活するかを知っているのを、人生を知っていることだと思っている。そして生活を教えることが、人生を教えることだと間違えているのである。しかし、「生活」と「人生」とはどちらも「ライフ」だが、この両者は大違いである。「何のために」生活するのと問われたら、どう答えるだろう。こういう基本的なところで大間違いをしているから、小中學校で仕事體験をさせようといった愚(注1)にもつかない教育になる。(中略)生活の必要のない年齢には、生活に必要のないことを學ぶ必要があるのだ。それはこの年齢、このわずかな期間にのみ許された、きわめて貴重な時間なのだ。生活に必要のないことは、人生に必要なことだ。すなわち、人生とは何かを考えるための時間があるのは、この年代の特権なのである。

「人生とは何か」とは、そこにおいて生活が可能となるところの生存そのもの、これを問う問いである。「生きている」、すなわち「存在する」とは、どういうことなのか。

この問いの不思議に気がつけば、どの教科も、それを純粋に知ることの面白さがわかるはずだ。國語においては言葉、算數においては數と図形、理科においては物質と生命、社會においては人倫(注2)、どれもこの存在と宇宙の不思議を知ろうとするものだと知るはずだ。人間精神の普遍的な営みとして、自分と無縁なものはひとつもない。どれも自分の人生の役に立つ學びだと知るはずなのだ。

(池田晶子『人間自身――考えることに終わりなく』による)

(注1)愚にもつかない:ここでは、ばかばかしい

(注2)人倫:人として守るべき道

56、多くの大人について、筆者はどのように考えているか。

1生活も人生もわかっていない。

2生活と人生の違いがわかっていない。

3生活と人生の両方を教えている。

4生活と人生の違いを教えている。

57、筆者によると、子供にとって必要なのはどのような時間か。

1働くことの意義を考える。

2人生と生活の違いを學ぶ。

3生活に必要なことを學ぶ。

4人が生きている意味を考える。

58、「人生とは何か」と問うことによって、筆者は何がわかると考えているか。

1自分がなぜ存在しているかということ。

2すべての學びが自分にとって有益だということ。

3教科で扱われている事柄は生活に必要だということ。

4人間が存在すること自體が不思議であるということ。

 答案:

問題8:3 4 1 4

問題9:2 1 2 2 3 1 2 4 2